圧倒的な感動!「砂の上の足跡」 岸田先生の独唱③ 7/6 チャペル コンサート コーロ ルチェーレ&岸田順子 成城キリスト教会
去る7月6日(土)、成城キリスト教会で行われたチャペル コンサートが無事に終了しました。
コンサートの前半は、私の所属するコーラスグループの発表会で、後半は私達の指導者・岸田先生の独唱でした。
(演奏会前半の、コーラスの発表会についてはこちら↓
チャペル コンサート コーロ ルチェーレ&岸田順子 無事に終了!)
岸田先生の独唱は本当に素晴らしくて、その感動的な演奏の2曲目から4曲目の感想を、前回と前々回のブログに書きました。
(2、3曲目の感想はこちら→神様の温もりが伝わってくるような歌の響き ~岸田順子先生の独唱(①伴奏;須江太郎))
(4曲目の感想はこちら→圧巻の歌声「風がどこから」 岸田先生の独唱②)
今日は、演奏会最後の曲、5曲目の「砂の上の足跡」の感想を書きます。
この曲の詩は、要約すると、
夢の中で「私」は神様に合い、砂浜を一緒に歩き、
振り返ると砂の上に自分と神様の足跡があった、
そこには自分の人生の一コマ一コマが映し出されていた。
でも、ところどころ一つの足跡しかないところがあり、
それは自分の最も苦しみ悲しんでいた時だった…
「神様、なぜ、私が最も苦しかった時に、
一緒にいて下さらなかったのですか?」と問うと、
神様はお答えになった
「愛する子よ、私は決して離れてはいない、
足跡がひとつなのは、
私がお前を背負って歩いていたからだ」
という、とても感動的な詩です。
そして曲は、演奏時間が30分ぐらいかかる大曲です。
この曲は、昨年(2023年)の5月、府中の森芸術劇場で行われた、岸田先生のでも演奏リサイタルでも演奏された曲です。
これはもともとオルガンの伴奏の曲で、昨年のリサイタルでは、作曲の新垣壬敏先生のお嬢様、オルガニストの山口玲子さんが伴奏されました。
それを今回は、ピアニストの須江太郎さんがピアノ用に編曲して伴奏したのです。
この曲はまず、歌が出てくるまでに、かなり壮大なピアノ(原曲ではオルガン)の独奏があります。
そして歌が始まると、最初は夢の中で神様に会えた喜びに満ちた曲調です。
神様が、ずっと共に歩んでくださっていたことを「2つの足跡」から気づき、喜びと感謝の気持ちがあふれてくるような雰囲気(曲調)が続きます。
ところがふと、足跡が1つしかない部分があることに気づき、愕然とします。
それも、自分が最も辛く苦しい時だったことに気づき、突然曲は暗く、重々しい響きになります。
「神様、なぜ?」と問う場面では、詩にはありませんが、「あぁ、あぁ」という感嘆詞だけの、かなり長い無伴奏の部分があります。
その後は一転して、「神様の言葉」が語られます。
「神様の言葉」はとても神々しくて、そしてあたたかくて、詩では「私」の気持ちは語られていませんが、どれだけ深い喜びと感動に満たされたかが伝わってきます。
…というより、その「私」は、聴いている私達ひとりひとりのことだ、と気づかされます。
以上、詩と曲の作りをざっと説明しましたが、これを一人の歌い手が表現するのです。
すごくないですか?
どれだけの力量が必要とされるのか、私には想像ができません。
夢の中で神様に会えた「私」の喜びと、神様が共に歩んでくださったことへの感謝、それが一転して、神様への不信感、そして絶望…
ここまででも大変です。
そして真骨頂は最後の「神様の言葉」。
「神様の言葉」って、どんな感じでしょう?
少なくとも、今の私には想像もできません。
でも、岸田先生の歌声は、神様が語られたら本当にこんな感じかもしれない…と、思わせるのに十分でした。
優しく、あたたかく、それでいて威厳があって、どこから響いてくるのか、厳粛で不思議な響き…。
前半の「私」の人間的な声を、はるかに超越しています。
そして驚くべきことに、この「神様の声」は、A(ラ)の音たった一音のみで語られるのです。
これは新垣先生の作曲の妙ではあるけれど、これを表現するって、並大抵のことではありません。
劇的なメロディーがある方が、ずっと容易なのではないでしょうか。
たった一つの音で表現される「神様の言葉」が、演奏会の最後を深い感動で包みこんで締めくくられました。
本当にすごい、深い感動に満たされる演奏でした。
そうそう、須江さんのピアノへの編曲も素晴らしかったです。
オルガンの多彩で迫力ある響きを、須江さんの持つ力強い迫力のある演奏で、余すところなく、見事にピアノで発揮していました。
まるでこの曲の伴奏は、最初からピアノだったように思えるほどでした。
余談ですが、客席には、オルガニストの山口玲子さんが聴きに来てくださっていました。
本当にあたたかく、幸せに満ちあふれたすてきな演奏会でした。
こんな機会に恵まれたことを、感謝せずにはおれない一日でした。