保恵と成城の2つの教会での奏楽のご奉仕
私は調布にある保恵キリスト教会で洗礼を受けたクリスチャンで、その保恵教会で月に1、2回、奏楽のご奉仕をしています。
奏楽のご奉仕というのは、礼拝のはじまりと終わりに、オルガンやピアノで演奏をしたり、礼拝中に歌われる讃美歌の伴奏をすることです。
洗礼を受けてから10年になりますが、奏楽のご奉仕はその前からやっているので、既に15年になろうとしています。
去年まで、このご奉仕はピアノでのみ行っていましたが、昨年末に教会関係者からオルガンの寄贈があり、今年になってから私もオルガンに挑戦するようになりました。
そしてやはり今年の初めから、保恵教会の他に、同じ教団である成城キリスト教会でも月に1度ご奉仕をさせていただくようになりました。
保恵と成城の2つの教会で奏楽をさせていただくことは、私にとって、今、とても大きな喜びになっています。
子供の頃から讃美歌が好き
私はそもそも子供の頃から讃美歌が大好きでした。
子供の頃、近所の教会学校に通っていましたが、神様の話を聞く以上に讃美歌を歌うのが好きで、それを楽しみに通っていました。
それが高じて、学生時代にはバッハの宗教音楽にどっぶりとハマっていました。
大人になって教会に通うようになってからでさえ、子供の頃と同じで、讃美歌を楽しみに通っていたようなものでした。
奏楽はお祈り
そんな私でも、聖書の言葉に触れ、真剣に神様の言葉に耳を傾けるようになり、受洗して、目も耳も心も開き、み言葉の意味もわかりはじめた今、奏楽でご奉仕ができる…というのは、とても大きな喜びです。
私は、奏楽は「祈り」だと思っています。
言葉ではなく「音」で捧げる「祈り」だと思うのです。
「音」で表す「祈り」は、言葉になる以前の「心」がそのまま祈りになるような気がします。
「音」は、言葉よりずっと直接的で、心に近い気がするのです。
讃美歌は、ピアノよりもオルガン
礼拝の音楽や讃美歌の伴奏は、ピアノよりオルガンが一層適しているような感じがします。
もちろん音楽史を紐解けば、教会音楽とオルガンとは密接な関係があるのだから、当然かもしれません。
でも、音楽史的な知識はともかく、オルガンの響きは、天に立ち昇る芳醇な香りのような不思議な厳かさがあります。
これは楽器の持つ特性の違いによるものでしょう。
ピアノの音は、一度鳴らしたらそのまま減衰するのみで、弾いた音をクレッシェンドすることはできません。
でも、オルガンはその逆で、鍵盤を押し続ける限り、どんどん音が増幅して行くのです。
音楽(曲)の構造がシンプルな讃美歌は、このオルガンの荘重な響きがぴったりだと思うのです。
そしてその音の響きの中にいる幸せは、ちょっと格別です。
オルガンの響きの中で捧げる「祈り」
オルガンを奏でると、自分がその多層な音の響きの中にいるのだから、全身が音に包まれるような、得も言われぬ心地がします。
それこそ、厳かな芳香に包まれるような心地です。
そういう中で神様に捧げる「祈り」。
讃美歌には歌詞があるので、その一語一語を音にするだけで「祈り」になります。
「すべての祈りを神は聞いておられる」と、聖書には書いてあります。
だから、祈りの音色が空間を満たす時、それは「至福の祈りの時」となるように感じます。
この機会に感謝して、精進を続けます
私はオルガニストではないし、オルガンをちゃんと習ってもいません。
だから、いわゆる「教会オルガニスト」のように、技術的に難しい曲は弾けません。
私が弾けるのは讃美歌と、ごく簡単な礼拝用のオルガン曲だけです。
足鍵盤も、最後の「アーメン」のところぐらいしかつけられません。
それでも何とか礼拝でお役に立てていること、そしてそのための練習をさせていただけることが、とても嬉しく、大きな喜びです。
このような機会を与えられていることに感謝しつつ、さらに精進して行きたいと思っています。